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砂山についてのお話し 館山体験交流協会​




砂山の話。海から 400mも離れた小高い山の上に、学校のグランドほどの砂山ができたのは少し昔のお話です。



元禄の大地震、関東の大震災で、この地方は3mから7mほど地盤が隆起しました。波打ち際が 50~100mも沖に移動したのです。そして海面だった一体には砂浜が広がりました。

その砂を海から吹く強い季節風が丘の上へと砂を運び、砂山が誕生したのです。砂山の大きさは、学校のグランドほどの大きさがあります。砂に混じって、貝殻の破片もあります。観察してみてください。


昭和40年頃までは山のてっぺんの岩がほんのちょっとしか見えないくらい砂が多かったです。

フラワーラインの道路ができ砂防の為の松が植栽され、施設が建ち、砂が風によって丘や山へと上がらなくなりました。

現在の砂山は、砂山滑り等の体験で山の上からだんだんと下に砂が下がりつつ、山下の小原川に流れ、また元の海に帰っております。現在は砂が少なくなりつつあります。また、山の脇から植物、草木の進入が激しく、あと 15 年から 20 年ぐらい先には、自然の山に変わってしまいます。


砂山での砂山滑り体験も、今しか出来ない、貴重な体験です。


その昔、農家の人は、作物を作っても強い季節風で作物が砂で埋まってしまうため、笹や竹で畑の周りに囲いを作り、稲わらで苗を囲い、いろいろな工夫をして砂から作物を守ってきました。砂に適した草花や野菜などの作物を植えて収穫してきたのです。

大雨の日は箕の傘を着て、砂を水路や小川に流し、砂を取り除いたとの言い伝えもあります。


砂山の下を流れる小原川の周辺には草ガメが生息し、時々見受けられます。雨上がりの砂地には、かめの歩いた足跡後が見受けられ、田植え時期には、田んぼの苗の間から、首を出しているカメの姿に出会えます。


砂山の話とは少し違いますが、この平砂浦周辺について少しお話します。


太平洋戦争の頃は首都東京を目指すアメリカ艦隊の上陸地点の想定もあり、砂浜一体は海に向かって機銃や、砲台が設置され、壕が掘られていました。

砂山頂上から見た、眼下の館山カントリークラブのあるゴルフ場周辺は、

米軍の本土上陸作戦を実践訓練するための演習場でもありました。

近くの東側には、海軍砲術学校もあり、兵隊さんもたくさんいました。本土決戦に備え 7 万人の兵隊さんが房総半島南部に配備され、花作りが禁止され、兵隊さんの食料の調達の為、花作りをサツマイモや麦作りに変えて、食物を作りました。

花農家の人たちは非国民と言われる時代に、花を絶やさない為、密かに山奥に小さな畑を作り、種をまき、苗を育て、花を咲かせて種を絶やすことなく隠し持っていました。

それが終戦後、再びこの地を関東でも有数な花作り地域に繁栄させました。

近年人気の切り花、アブラナ科の多年草でストック、

知っていますか?

日本のストックの 7 割以上の品種を手掛けたのが、この地の黒川さんです。

いろんなストックの新品種を作ってきました。

花屋さんで売られているストックのほとんどはこの地で誕生したのです。


館山カントリークラブの建物を建設する工事の最中に、館山市平砂浦を望む高台の翁作古墳(消滅)は数少ない例で、単鳳の環頭大刀、圭頭大刀、鹿角装刀子、須恵器などが出土しており、6世紀後半に築造されたと考えられています。

古代から人が住んで、伊豆大島とか、伊豆諸島を眺め暮らしていたのですね。


この平砂浦の地は、現在、リゾートホテルや、ペンション、ゴルフ場、観光施設、花のテーマパークなどのリゾート地です。首都圏への野菜やお花の生産地として活性している地域です。

短い歴史の中で、幾度となく平砂浦の地は、その時代の生き方を、人々の手で作り変えてきた土地、地域です。砂山や、周辺の地域のことを少しお話してみました。



館山体験交流協会​

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